アリスブルーの伝説 第二話 『守護聖』の忘却
ここに来る前から状況を聞かされていたにもかかわらず、己の目の前で何が起こっているのか、ジュリアスが理解するまでには時間がかかった。 小さなログハウスの一室は、しんと静まり返っている。遠くから、微かな潮騒の音が聞こえてくるだけだ。 「何故、このような事になってしまったのだ……」 ジュリアスの呟きに、ゼフェルは首を振るしかない。 「リュミエール! 一体何が起こったというのだ!」 「よせ、ジュリアス!」 思わずリュミエールの肩を掴んでしまうのを、ゼフェルに押さえられる。リュミエールは、困ったようにジュリアスを見つめるだけだ。 「何かが起こった後にリュミエールの記憶が抜けちまったんだろうが。それを今リュミエールに問いただしたって、答えられる訳がねーだろ」 珍しくも、ジュリアスの方がゼフェルに諭される。 しかし、守護聖首座であるジュリアスにしてみれば、守護聖のひとりであるリュミエールの記憶がなくなってしまったという事実は衝撃的である。これからの事を考えあわせてみても、人より動揺してしまうのは無理のない事かもしれない。 彼の、責任の重さゆえだ。 「ジュリアス……様」 なんと声を掛ければ良いのかわからない。しかし、何かを言わなければならないような気がしてリュミエールは静かに呟いた。けれど、次に続く言葉が見つからない。 「リュミエール、ここはいいから、あんたは休んでな」 ゼフェルのぶっきらぼうな言葉に一瞬戸惑ったリュミエールだが、自分がここにいてはまずいのかもしれないと思い直し、素直に頷いた。 守護聖同士、何か大事な話もあるのかもしれない。 今のリュミエールに考えられるのは、そんな事だけだ。 リュミエールがそっと扉を開き、別室に行ったらしい事を確認すると、ゼフェルはフウ、とため息をついた。 わかっている事がいくつかある。 リュミエールが失ってしまったのは、守護聖としての記憶のみであるという事。だから、彼自身の人格そのものが無くなってしまった訳ではない。 彼は、自分がどこで生まれて育ったのかをちゃんと憶えている。しかし、守護聖であった部分が抜けてしまっているから、母星を出てから自分がどのように過ごしてきたのかが曖昧になってしまっているのだ。 リュミエールに言わせると、何時の間にかこの惑星にいて、ぼんやりと過ごしていたような感覚しかないらしい。いつから、何故ここにいるのか、考えた事もないというのだ。 事実から言えば、リュミエールがこの惑星に来たのはほんのふた月ほど前なのだから、当然といえば当然だ。しかし、リュミエールはずっと前からこの惑星にいたのだと思っている。 「ゼフェル、それは……記憶の差し替えが、行なわれているのではないか」 ジュリアスが、疑問を口にする。 普通、もしも自分の過ごしてきた人生の途中がすっぽりと切り取られていて、普通に過ごしていた筈が突然違う惑星にいて、身体的にも成長していたとしたら、あんなに平穏を保っていられるものだろうか。 だとしたら、外側から何事かの干渉があって、記憶が都合の良いように差し替えられているのではないか。 「俺も、その事は考えたよ。けど、どうもな……リュミエールの場合、どういう訳か、純粋に『守護聖であった部分』のみが無くなってるみてーなんだよ。だから、今まで生きていた時間は、実感として残っている事になるから、一概にそうとは言いきれねえような気がして……ああッ、もう、何が何だかわかんねー」 普段使わない方向に頭を使っているせいで混乱しているらしい。 しかし、それならば何故、守護聖である部分だけが無くなってしまったのか。 リュミエールの水のサクリアは、彼の内から消えてはいないのだ。 では、それを繰る能力は? ジュリアスは、突然奥に通じる扉を開くと、荒々しく部屋を飛び出した。 「おい、ジュリアス!」 行き先は分っている。リュミエールの許へと向かったのだろう。 「……しらねーぞ、俺は」 あの時は気が動転して「誰でもいい」などと言ってしまったが、今思えば絶対ルヴァあたりにしておけば良かったと、今更後悔しても遅すぎる。もっとも事情を話した時点で、誰を指定していようが結果は同じだったかもしれないが。 「リュミエール」 ログハウスはそれほど広くはない。実質三部屋しかないから、リュミエールが休んでいる部屋はすぐに見つける事が出来た。 「はい」 部屋に備え付けられているベッドに腰掛けていたリュミエールは、突然入ってきたジュリアスの呼びかけに、素直に返事を返した。 「何か、少しでも良い、思い出せる事はないか」 同じ質問は、ゼフェルからも受けていた。 しかし困った事に、リュミエール自身には、何かの記憶を失ったという自覚そのものが全くないのだ。記憶を失ったという事が分っているケースなら何かを思い出そうと努力もするのだろうが、そうではないから何かを思い出そうという気もない。 「申し訳ありません……」 リュミエールの言葉に、目の前の守護聖は心底憔悴したような表情になってしまうから、彼も哀しくなってしまう。 しかし、どうしようもないのだ。 「では、私のサクリアは感じる事が出来るか」 守護聖という存在は、知識として知っている。 自分の母星からも何人か守護聖を送り出しているくらいだし。 その守護聖には九種類の属性があって、それぞれが専門の力を持ち、それを行使するのだと。 そして、目の前にいるのはその守護聖達の長、光の守護聖ジュリアスだ。 けれど。 彼の質問には、NOと答えるより他はない。 彼の言うサクリアというものがどういうものなのか、ゼフェルに何度説明を受けても想像すら出来ない。 「そうか……」 何故なのかは分らないが、自分は守護聖を、二人も困らせている。その事実に、リュミエールはただ俯く事しか出来なかった。 聖地の王宮では、ちょうどオスカーからの交信を受け取ったところだった。 「今から帰るから、回廊を開いてくれないか」 オスカーの言葉に、ロザリアが飛び掛かるかのような勢いでまくしたてる。 「お待ちしておりました。オスカー、至急聖地にお戻りになって。すぐに向かっていただきたい場所があるのです」 「何だってえ?」 まさに寝耳に水、オスカーは、この仕事の後は何日か休暇でのんびり、と決め込んでいたのだから、この反応も仕方のない事だ。 「何かあったのか」 「詳しい事は、戻られてからお話いたします。とにかく、至急」 ただならぬロザリアの様子に、さすがのオスカーも頷くしかなかった。 リュミエールは、岩場に腰掛けたままぼんやりと海を眺めていた。 昼間は日差しが眩しいが、彼はそんなものはまるで気にしていない様子だ。根っからの海育ちであるが故か。 すぐ下の足許には、白い波が緩やかに打ち付けている。今日も海は穏やかだ。 その後ろ姿を見つけたジュリアスは、そっと彼に近付いた。 しかし、何とも話がし辛いというか。確かに彼はリュミエール本人に間違いはないのだが、守護聖であった事の自覚がないせいか、まるで別人のようにも思えるのだ。なんだかんだ言って、ゼフェルも相当やりにくいらしい。 ふいに、腰掛けていたリュミエールの身体がふわりと浮かんだかのように見えた。と、そのまま彼の身体は岩場から離れ、大きな音をたてて真下に広がる海の中に落ちてしまった。 「!! ……リュミエール!?」 突然の事に、そこに駆け寄ったジュリアスは考える間もなく後を追って海に飛び込んでいた。 派手な音をたてて、水が泡立つ。 水の中でリュミエールの姿を探すが、周りの泡が邪魔になって、その姿を捕らえる事が出来ない。 (リュミエール……!?) 一体どうしたというのか。 揺らめく視界に慣れる間もなく、強い力でぐいと手をひかれた。 ほんの少し手をひかれ泳ぎ着いたところは、すでに足の立つ位置だった。 立ち上がれば、水位は腰のあたりだ。目の前には、同じようにずぶぬれになったリュミエールが、きょとんとした顔で立ち尽くしている。 「突然、どうなさったのですか? そのような格好で海に飛び込むなど……」 ジュリアスの手を引きここまで連れてきたのは、リュミエール本人だった。 彼の様子に、変わったところは見受けられない。 そこで、ジュリアスはようやく思い至った。 リュミエールは海に落ちたのではなく、ただ飛び込んだだけだったのだ。 思わず、ふつふつと怒りが込み上げてしまった。 「そなたは何を考えているのだ! 海に飛び込むのなら、そのような素振りを見せてから飛び込まぬか! 落ちたのかと思ったではないか!!」 ジュリアスの怒声にびくりとしつつも、リュミエールは得心したように瞳を見開いた。 「……心配して下さったのですね。申し訳ありません」 うっかり怒鳴ってしまってから、ジュリアスはかっと顔を赤くした。らしくない己の台詞に、顔をしかめる。 「頭の中を少しクリアーにしたかったものですから――誰かがいるとは思わなかったので、つい……」 リュミエールとて、今まで何も考えていなかった訳ではないらしい。 突然の守護聖の出現で混乱してもいるのだ。しかも、自分も守護聖であったなどと言われてしまっては。 「ついでと言っては何ですが、お召し物も変えた方が良いのではありませんか? この島で、そのような装束では暑いでしょう」 言われてみれば、そのとおりだ。常春の聖地ではまったく気にならない普段の格好も、日差しの強いこの星では暑いし、動き辛くもある。 リュミエールの方は、ジュリアスがこの星に来た時から、ワイシャツにスラックスと、かなりの軽装でいる。 「早く洗い流さなければ、髪が傷んでしまいます」 自分が海水に濡れている事はまったく気にも留めていないようなリュミエールに手を引かれるまま、ジュリアスは大人しく後をついていった。 水を得た魚というのはこういう事を言うのかと、この時彼はぼんやりと考えていたのだ。 「着替えは、ここに用意しておきます。クロゼットの中にたくさんありますから、どれでもお好きなものをいつでもお召しになって下さいね。浴槽には湯を張ってありますから先にお使いになって下さい。何か、お手伝いをした方がよろしいですか?」 ずぶぬれのまま、さっさと準備を始めるリュミエール。 「そのように、気を遣う事はない。風呂も、そなたが先に使うが良かろう」 「そのような、恐れ多い事は……」 リュミエールの気の遣いようにうろたえるジュリアスだが、リュミエールにしてみれば恐れ多い『守護聖様』なのだ。 しかし、お手伝いまでされては敵わない。 「そなたも私も、立場は一緒なのだぞ」 「そんな……!」 居間での二人の会話に、ゼフェルがキレた。 「ボタボタ水垂らして押し問答してねーで、さっさと二人とも、風呂に浸かって来い!!」 ゼフェルの怒声に浴室に逃げ込んだ二人だったが、結局は海水に慣れていないジュリアスが先に身体を流す事になった。 普段から手際の良い彼は、さっさと済ませると、すぐにリュミエールと替わる。 髪をある程度まで乾かすと、リュミエールが用意した衣装に袖を通した。 しばらくシャワーを使っていたらしい浴室が、にわかに静かになった。 「リュミエール」 戸惑いがちに、ジュリアスが引き戸の向こうのリュミエールに声を掛ける。 「はい」 返ってきた言葉は静かな返事だった。ほんの少し、浴室特有の響きが感じられる。 「そなたが守護聖であった事を思い出せないなら、それは仕方があるまい。だが、守護聖であったという事実は、心に留めておいてほしい」 このままで良い筈はない。 しかし、気ばかり急いても状況はそれに合わせてはくれないだろう。 ジュリアスなりに、一応は色々考えた上での言葉だ。 「……」 「それから、そなたが守護聖であるという事を忘れている代わりに、私やゼフェルが守護聖であるという事も、しばし忘れるように」 「……それは……」 「私たちが守護聖であるという事は、変え難い事実だ。だが、そなたと立場が違うとは、極力考えないで欲しいのだ」 できるだけ優しい声音で、ジュリアスは言った。彼にしては珍しい努力だ。いつもと違うリュミエールにうろたえまくっているという事実もあるが。 カラカラと、浴室の引き戸がそっと開かれた。 湯を纏ったままのリュミエールが、肩からすっぽりとタオルを羽織って姿を現した。 「……はい」 漸く、リュミエールが静かな微笑みで返事を返した。 思えば、ここに来てから初めて見る笑顔だ。 ジュリアスにしてみれば次善の策でしかなかったのだが、とりあえずのところはこれで良しとしようと、彼の笑顔を見て思うのだった。 To be continued.
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