Your Truth |
室内に、さらさらとカンバスに木炭を滑らせる音が響く。 やわらかに動くセイランの手許を見つめながら、傍で見ていたオスカーは小さく感嘆の息を洩らした。 「相変わらず器用に動くもんだな……下書きも無しに」 セイランは、思わずがくりとうな垂れてしまう。 「これが下書きなんですがね……」 「そうなのか? すまんな、こっちの事はさっぱり解らなくてな」 別にオスカーに芸術の云々を期待している訳でもない。セイランは、それ以上の追求はしなかった。 この二人、何故だか妙に気が合うらしく、時たまこういう風に何をする訳でもなく共に時間を過ごす事があった。オスカーの方は気が置けないと思っているのかどうかは知らないが、セイランにしてみれば、訳のわからない自信に満ち溢れた炎の守護聖は、彼の芸術的センスにピンと触れるものが在るらしい。 「でも正直、最近ちょっとスランプ気味かな。なかなか、こう心にピシャリとマッチする題材もなくて」 珍しくと言うべきか相変わらずと言うべきか、セイランは己の作品に斜めに視線をを向け、静かに嘆息する。 彼は、自分の生み出す芸術には、相応のプライドを持っている。だからこそ、気に入らないものに関しても正直で、自分の作品には他人のもの以上に妥協を許さない。先ほど手を加えた部分に練り込んだパンを滑らせるが、全体的に気に入らないらしく、それもやめてしまった。 無造作にそこに置いてあるパンのまだ使われていない部分をひと掴みむしり取り、オスカーは口に運んだ。この辺の行動も、セイランには面白いらしい。 「人物のモデルなら、リュミエールあたりが良いんじゃないか。あいつは綺麗だぞ。絵画ならあいつもやってるし、話し相手にもなると思うが」 セイランは「また始まった」とばかりに、はあああと盛大に息をついた。 オスカーとリュミエールがいわゆるそういう関係なのは、ある程度親しい人間は皆知っている。リュミエールの方はともかく、オスカーのラブラブっぷりは、すでに聖地の名物になる勢いだ。 「あなたがリュミエール様に御執心なのは良く知っているつもりだけどね、芸術家を、ひと括りにしないでいただきたいな。人にはそれぞれの感性というものがあるんですよ」 芸術家のこだわりというものは、その世界に足を踏み入れていない者にはなかなか理解し難いものがある。その代表者とも言えるオスカーは、はてと首を傾げた。 「それに確かにリュミエール様はお綺麗ですがね、正直、僕の芸術の範疇外だ。面白味のないただ綺麗なだけのモノは、僕は趣味じゃないんで」 セイランの言葉は、さすがのオスカーにもカチンと来たらしい。 「面白味がないとは何事だ。お前はあいつを良く知らないだけだ」 「自分は良く知っているという様な口振りですね。僕にしてみれば、オスカー様のような人が、なぜそんなにもあの人に入れ込むのかが不思議ですよ」 よりにもよってオスカーが、風が吹けば飛んで行きそうな風情のリュミエールのどこをそんなに気に入っているのか、セイランには不思議だった。いくら正反対のものに惹かれるのが人情とは言っても、リュミエールのような人間がオスカーの好みだとは、到底思えなかった。ああいった性格が良いのならば、いっそ女性とお付き合いした方が良いだろう。もともと大の女好きなのだし。 今度はオスカーの方がハハンというように、肩をすくめてみせる。 「あいつはただお優しくて綺麗なだけじゃないぞ。ちゃんと強さと……まあ、毒も持ってる」 「オスカー様だけが知っている、という訳ですか? しかしそれなら、大した二重人格だ」 思わずむっとするオスカー。何故この男は、リュミエールに対してこうも反発した態度を取るのだろう。他人に対しての評価がきついのは今に始まった事ではないが、今日は特に突っかかる。 「同じ芸術家だからって、ライバル心でも燃やしてるんじゃないだろうな」 「冗談じゃない! ……ただ」 「ただ?」 いや、と、セイランはオスカーから視線を外す。 「ちょっと気に入らないのは確かだね。本当にオスカー様の言うような人なら、どうして普段、あんなに大人しく振舞うのかな? 気に障る事も憤慨する事もあるだろうに。怒りを悲しみに変えてしまうなんて、今時美徳にもならないですよ」 「最初は俺もそう思ったさ。優しさなんてのは、うざったいだけだってな。だが、あいつの優しさは本物だ。本当の優しさってのは、一種、強烈なものがあるぜ。滅多に怒らないのも、争いを好まないなんていう意見も、あいつだから許せる」 それだけ言いきる自信は、一体どこから来るのか。 やれやれと、セイランは大きな窓枠に左肩を預けた。いつも天気の良い聖地の風が、穏やかにセイランの頬をくすぐる。 そう。聖地はいつでも居心地が良いけれど、嵐の夜のあの強烈な風は、ある意味わくわくするものがないか? 瞳に突き刺さるような雷の光は? そういう激しさがあるから、穏やかな時は安らげるのではないか。 柔らかな髪を風に任せたまま聖地の景色を眺めていたセイランは、ふと怪しげな微笑みを見せると、意味があるのか無いのか、ふうわりと右手を窓の外に泳がせた。 「まあ、あなたがどう思っていても僕には関係ないけど……たまには、僕みたいなのはどう?」 「セイラン?」 突然、セイランはオスカーにしなだれかかると、その両手をオスカーの首に巻きつけた。 「あなたには、少しくせのある人の方が似合うと思うよ。僕みたいな、ね」 クスクス笑いながら、オスカーの肩に頬を寄せるセイラン。リュミエールとは違ったタイプの色っぽさが、オスカーを誘う。 「おい、セイラン!」 コンコン。 ぎくりと、オスカーはセイランに抱き付かれた体勢のまま、ノックされた扉の方を見た。 こんな処を誰かに見られたら、どんな誤解を生んでしまうかわからない。それが、リュミエールの耳にでも入ったら……。 しかしセイランの返事を待たずにその扉を開けた人物は、誰であろう、リュミエール本人だった。 「セイラン、何か御用ですか……?」 「リ、リュミエール!」 姿を見せた水色の髪の守護聖は、視界に飛び込んできた光景に、一瞬きょとんとした表情を見せた。 「オスカー……?」 訳のわからなそうな顔を見せるリュミエールに、オスカーひとりが蒼白になり慌てふためく。これではまるで『浮気現場発覚!』みたいな光景ではないか。 「こんにちは、リュミエール様」 オスカーに張り付いたまま、セイランは微笑する。窓辺で外に向かって何かをしていたのは、通りかかったリュミエールを招き寄せていたのだと、オスカーはこの時気がついた。 わざと、リュミエールにこの光景を見せるためにやったのだ。 なぜそんな事をする!? 「……ごきげんよう、セイラン。何か、用事があったのではないのですか?」 まるで何も思うところも無いように、リュミエールは挨拶を返す。 そんなリュミエールを、セイランは注意深く観察した。 真面目に、リュミエールは顔色ひとつ変えていない。 「リュミエール様、こういう姿を見て、何とも思われないんですか?」 「……ええ、特には」 「仮にもあなたの恋人が、他の男と抱き合ったりしてるんですよ? 怒りとか、嫉妬とか無い訳ですか?」 静かなリュミエールの答えに、セイランは頭が悪いんじゃないかとばかりに彼に詰め寄る。勝手に振りほどかれたオスカーは呆然と二人を見つめて立ち尽くしたままだ。「別に抱き合ってた訳じゃない」と、口を挟む事も出来なかった。 「一方的にそうされたのであれば、オスカーに責はないでしょう……それに」 「それに?」 「もしも、オスカーが同意の上でこういう行為に及んだとして、私は怒りはしますが、嫉妬はしません」 セイランは、視界に収まる世界すべてがぐらりとまわるのを感じた。 この人は、何を言っているのだ。 「何故そうなるんですか。普通は口で何と言っても、心の中では絶対に引っかかるものがあるはずでしょう? あなたには、まるっきりそれが無い。もしかして、オスカー様の事を好きだなんて、嘘なんじゃないですか」 なんて事を言うんだと、オスカーは言いかけたが、リュミエールがひょいとオスカーの方に顔を向けたので、思わずとどまってしまった。 リュミエールが何を考えてそんな事を言うのか、オスカーにもわからない。やっぱり、静かにひっそりと怒っているのではないだろうか。しかし、一方的にされたのなら怒らないと、先刻言ったではないか。 「オスカー? あなたは、セイランが好きなのですか」 あんまりなリュミエールの問いに、オスカーは今度こそ声を大にして叫んでしまった。 「馬鹿言うな! 俺が好きなのは、お前だけだ!」 オスカーの明朗な答えに、リュミエールはくるりとセイランに向き直った。 「つまり、そういう事です」 「ハァ……?」 本格的に、何を言っているのかわからない。 「私が嫉妬するとしたら、オスカーが他の誰かを好きになった時だけです」 この場合の『好き』は、もちろん恋愛感情を指す。 セイランは、思わず傾きかけた己の心の体勢を整えるかのように、静かに息を吐いた。 「つまり、オスカー様が誰と抱き合おうがキスしようが、その人を愛しているという行為じゃない限り、嫉妬なんてしないと、そういう事?」 「そうです。勿論、感心できた行為ではありませんから、怒りはしますけど」 「大した自信家ですね。先刻のような場面に遭遇したとして、あなたはまず疑うといった行為をしない訳だ。ばか正直に、信頼しているという事ですね」 リュミエールはこくりと頷いた。この押し問答にも、気分を害したような気配は見せない。そんなリュミエールを、セイランは尚も煽った。 「甘いというか、おめでたいですね。あなたのような人が、いざ裏切られた時には大泣きして後悔するんですよ」 ズケズケと言い放つセイランを、リュミエールは相変わらず無表情のまま見つめた。 「ですが、まずは信じなければ、愛だ恋だなどとは語れませんよ、セイラン。私は、裏切られる事に怯えながら暮らして行きたくはありません。それなら前向きに考えていた方が良いでしょう。もっとも、それを教えてくれたのはオスカーですが……」 それに、オスカーが沢山の人に好かれれば嬉しいです、と、リュミエールは初めて微笑みを見せる。 ただ呆然としているオスカーは、改めてもの凄い人物に惚れてしまったのだと実感した。こと色恋において、ここまで「オスカー」を信用できる人間が他にいるだろうか。 「フフ……アハハハハ!」 唐突にセイランは笑い出した。 「やっぱりね……フフ、僕の目は誤魔化せませんよ。あなたは僕の思った通りの人だ。なるほど、オスカー様が骨抜きになる訳だね」 愉快そうに笑うセイランが何を言わんとしているのか、オスカーにはわからない。先刻は、逆の事を言ってなかったか? 「あなたは他の人の言うような人じゃないと、ずっと思っていたんですよ。あなたの奏でる音楽や、描く絵画を見ればわかる。けれど、あなたは普段それを他人に見せずに大人しく振舞っている。この僕にすらたった今までわかりませんでしたよ。どうして猫をかぶるような事をしているんですか」 オスカーは、ここへ来てやっと自分がカマをかけられていたのだと気付いた。最初から、リュミエールはセイランの興味の対象だったのだ。 セイランにしてみれば、ずっと引っかかっている事だった。絶対に内側に何かを秘めていそうなのに、リュミエールは普段、あまりにもおとなしすぎる。激しさを垣間見せようともしないから、セイランにとってはひどくつまらない人間に見えてしまう。 水の守護聖の、本当の姿が見たかったのだ。 「……あなたの目に二通りの私が映っているとしたら……それは、両方とも、本当の私ですよ」 偽っている訳でも、本性を隠している訳でもないとリュミエールは主張する。そう、時にきつかろうが、優しかろうが、それは紛れも無く、リュミエールそのものの姿だ。 「ますます気に入ったな。……オスカー様、僕もリュミエール様を好きになっちゃいそうだよ」 「な……ッ、ふざけるな、絶対だめだ駄目だ!」 途端に顔色を変えるオスカーに、セイランは冗談だよ、とクスクス笑ってみせる。 「なるほど、オスカー様の方は、他人からの好意をリュミエール様のようには許容できない訳だね」 好きだから、心の底から信頼する。また、好きだから独占欲を燃え上がらせる。どちらも、間違った形ではないだろう。こういう点においても、オスカーとリュミエールは対極にいるのだ。 「リュミエール様。お聞きしますけど、では、本当にオスカー様に裏切られたとしたら、その時あなたはどうするんです?」 セイランの言葉に、リュミエールは少しだけ考える素振りを見せたが、そっと微笑んで言った。 「それは……秘密です」 結局リュミエール的には、何をしにセイランのところまで行ったのかわからなかった。オスカーとのアレを見せ付けて、リュミエールの反応をうかがおうとセイランは企んだ訳だが、当のリュミエールは良くわかっていない。 なし崩しに私邸までついて来てしまったオスカーに、ハーブティのカップを差し出す。 「本当のところ、どうなんだ?」 オスカーが、リュミエールの瞳を見詰め、問いただす。 オスカーの向かいのソファに腰掛けたリュミエールは、質問の意味が分からず聞き返してしまう。 「本当のところ?」 「俺が本当にお前を裏切ったとしたら……だよ。俺にくらい、教えてくれても良いんじゃないか」 「ああ……」 それですか、と、リュミエールは微笑む。 リュミエールはどれも本当の自分だと言っていたが、こういう時に見せる柔らかい微笑みなどは、やはり二人だけの時に見せているような気がするのは、オスカーの気のせいだろうか? 思わず優越感に浸ってしまうが、勿体無いから誰にも教えてやらない。 「セイランにはああ言いましたが……正直なところ、わからないんです」 「わからない?」 困ったように首を傾げる仕草が、また色っぽくて、可愛い。 「オスカーに裏切られる自分を、想像した事がありませんから……」 なんて、可愛い事を言うんだ……!! 心の中で、オスカーは悶絶する。 馬鹿げて純粋なのかもしれない。それとも、相当の自信家か。どちらでも良い。自分が好きになった人だから、リュミエールはオスカーに絶対の信頼を置いているのだ。 信じたのが先か、好きになったのが先か。それは今となってはわからないけれど。 「リュミエール」 オスカーは、手で来い来いとリュミエールを呼び寄せた。 素直にそれに従い、オスカーの隣に腰掛けるリュミエール。その彼の頭を、オスカーは意味も無くクシャクシャと撫でまわした。 「フフ……でも、ああ言った方が、セイランも色々と想像できて、楽しいんじゃないかと思います」 楽しそうに笑うリュミエールの髪を撫でていた手を止め、オスカーは彼にそっと口接けた。 「そうだな」 こんなリュミエールは、誰にも見せてやらない。他の誰かに見せたりしたら、皆がリュミエールの事を好きになってしまうじゃないか。 オスカーは、ひとり考えた。 恋は盲目だと言われても良い。自分はリュミエールの事が、こんなにも好きなのだ。 ひどく純粋で自信家で、強くて美しい水色の髪の守護聖が自分の傍に在る事を、オスカーは誰にとも無く、そして何よりも隣の彼自身に感謝しながら、その身体を強く抱きしめた。 その後セイランは無事にスランプを脱したらしく、一枚の絵画を描き上げた。それは彼には珍しく、ほとんどふたつの色だけでカンバス全体が構成された、抽象画のようなものだった。 赤と青、対照的な色使いのそれをいたく気に入ったらしいオリヴィエが、その絵を見つめながらセイランに問いただした。 「それで、このモチーフは何なのさ」 「秘密です」 しかし多分想像した通りのものだと思いますよ、と、セイランはあでやかに、さも愉快そうに聡明な笑顔を見せて、更に言った。 「タイトルはね――『破れ鍋に綴じ蓋』というんですよ」 END ☆『破れ鍋に綴じ蓋』―どんな人間にも、ふさわしい伴侶がいる、といった意味です(笑)。 |