Prayer ACT.3 やわらかな光の中で |
――10月 最近洋明は、朝寝坊する癖がついてしまった。 「起きろよ。遅刻しちゃうよ!」 少女のように細い声に起こされる事にすっかり慣れてしまって。心地よい声に起こされたくて。 我ながらだらしなくなったと思う。 「おーきーてッ!」 上掛けを剥がれ、仕方なく起き上がる。確かに、なかなかいい時間だ。 この調子でいつも起こされ、弁当を持って仕事に出掛ける。そんな毎日が、平和に続いていた。 まるで新婚家庭のようじゃないかと、かなり色ぼけた事を考えつつ、ひとり気味悪くにやつく洋明。 気分としては間違いではない。 ただし、相手は男の子だから、新婚には決してなり得ないのだが……。 藤城克哉が清水洋明の家で暮らすようになって、しばらく経っていた。 洋明を送り出しながら、克哉は思う。 あの時。 洋明の前から消えようとした自分を彼が捕まえた時。 洋明は「今日からうちに来い」と言った。 『今度から』でも『明日から』でもなく、今日から。 追いつめられて行き場を失っていた自分の居場所を、いとも簡単に作ってくれた洋明。 彼はいつもそんな調子だったら。洋明のそんな処も、きっと好きだったのだと克哉は思う。 何だか、とても幸せな気分だった。 自分の事は結構どうでも良かったからずさんに生活してきたけれど、洋明になら、何でもしてあげたいと思う。 「だって、毎日、弁当残さないんだ」 いつも洋明に頼りっぱなしの自分が一方的に甘えているような気がして、少々切なくなったりもする克哉だったが、彼が作る料理を、洋明は事の他喜んだ。 もちろん料理なんて良く知らなかったし、あまり食事を作った事もなかったが、洋明のために憶えた。 人前に出しても恥ずかしくなくて、できれば……おいしいお弁当を作りたくて、毎日頑張っている。 他の誰とも得られなかった、こんな生活。 この暮らしがいつまでも続けばいいと思う。 「明日は非番の日だし……またどこかに連れてってくれるのかな」 派出所勤務の洋明はいつも忙しかったが、休みになると疲れた様子も見せずに、克哉をあちこちに連れ出した。 洋明には、洋明なりの考えもある。 まだ二人で暮らしていなかった頃。克哉と顔を合わせるのは、いつも夕方から夜にかけてだった。克哉は、洋明の事を『初めて好きになった人』と言った。その好きな人との逢瀬がいつも夜で、多分、昼間にはあまり出掛けたりなどしていなかったのだろう。 それは、あまりにも寂しい。 克哉と一緒になってからは、できれば色々な処に連れ出してやりたいと、洋明は考えていた。 家でふたりきりも悪くはないが、それは仕事が終わったあと、いつでも一緒にいられる。 出掛けるたびに克哉は本当に嬉しそうに笑うから、洋明も楽しかった。 普段の疲れなど、それだけで吹っ飛んでしまう。 今の洋明が毎日何よりも真剣に考えているのは、克哉を幸せにしてやる事、ただそれだけだった。 深夜2時もまわった頃。 克哉はゆっくりと目を開けた。 手を当てた額に、うっすらと汗が滲んでいるのがわかる。 いやな夢を見た。思い出したように、今ごろ。 部屋の反対の壁側のベッドの洋明をそっと盗み見る。飛び起きたりしなくて良かった。それでなくても敏感な奴だから、そんな事をしたら、すぐに気付かれてしまう。 はあ、と深いため息をはく。 時々、こういう事がある。全ての傷が癒えるには、まだ早すぎるのだ。 ゆっくりと起き上がり、ベッドからそっと降りる。ちょっとだけ、洋明の顔を見たら、いやな夢も見ないで済むんじゃないかと思って。 しかし、あまり近付く事もできずに、克哉はそこに突っ立ったまま、自分に背を向けている洋明の姿を、しばらく眺める。 「克哉」 その声で、微かにビクンと身体を震わせた克哉の気配が、背を向けている洋明にも感じて取れた。 「……洋明」 「眠れないのか?」 上半身を起き上がらせた洋明の言葉に、頷く克哉。相変わらずの素直さに、洋明は苦笑する。 手招きで克哉を呼び寄せる。とことこと寄ってきた克哉にちょこんと軽いキスをすると、そのままどさん、と自分のベッドに小さな身体を転がす。 「おやすみ」 にっこりと笑って言う洋明に、まるっきり心の中を見透かされていると気付いた克哉は、真赤になりながら壁側に向かって丸くなって寝転んだ。 やっぱり洋明にはかなわない。 恥ずかしくて、でもやっぱり嬉しくて。 そんな克哉を、洋明は後ろからぎゅう、と抱きしめた。 「克哉ぁ。今日は、何か面白いテレビ、あったか?」 抱きしめた体勢のまま、どうでもいいような事を囁くように訊いてくる。 「……うん。どこかのフラワーパークに、秋の花が満開だって特集が、きれいだった」 真赤な顔のまま、やはりどうでもいいような答えを返す克哉。 克哉が独りで暮らしていた時は、そんな余裕はなかったので、テレビなどの娯楽の器材は一切置いていなかった。 ここに来てからは、テレビも見られるし、音楽も聴ける。今度ゲームも買おうな、と洋明は言う。前から欲しかったんだ、などと彼は言うが、本当は克哉の事を考えて言ってくれているのだとわかる。 ひとつの部屋の中で、二人でコントローラーを握ってゲームをやる。そんな光景を想像すると、克哉は年相応にわくわくしてしまう。 「フラワーパークかぁ。秋も綺麗な花があるからなあ。近くの公園にも花が沢山あるところがあるぞ。明日、行ってみようか」 「……ほんと? きれいだろうなぁ。お弁当作っていこうかな? あ、でも男二人で弁当つつくのも、何か変か」 うきうきと呟く克哉に、洋明は苦笑する。やっぱりこの打てば響くような反応が可愛い。 「別に変じゃないよ」 洋明はそう言うけれど。 傍から見ればやっぱりおかしい訳で。 洋明は、克哉の事を必要以上にひけらかすような事はしなかったけれど、また必要以上に隠す事もしなかった。 実際、すでにいつも交番に遊びに来るらしい智子という少女には、自分の姿を目撃されている。凄く恥ずかしかったし、洋明にも恥ずかしい思いをさせたんじゃないかとひやひやした。 もっとも智子の場合は、かなり例外的な性格をしていたので、彼女は一言「あー、確かに、お巡りさんが言ってた通り、意外なタイプですね」と、にっこり笑った後、自己紹介などをしてきたりした。 同じ年くらいの女の子だったから、たまにはお話しようね、という智子の言葉も素直に受け取る事ができた。凄くいい子だ。 本当は、洋明にはこういう子が似合うんじゃないだろうか、と思わなくもなかったが、あえてそれは考えない事にした。 自分を選んでくれた洋明の事を、克哉は心から信用していたから。 「でも、あそこのホットドッグも美味いんだ。それは食べような」 楽しそうに、洋明が言う。 「お前も最近は疲れてるだろ? ゆっくり秋の花見も楽しいだろうな」 克哉は、洋明と暮らすようになってから、以前よりは時間を減らしつつもバイトをはじめた。 おんぶにダッコでも洋明は多分何も言わないのだろうが、何もかもが今までの倍になっているのだ。お金はあった方がいいし、この位の事はしないと、克哉自身が我慢できなかった。 バイトをしている事についても、洋明は何も言わない。 「克哉。二人で働いてたら、金も早く貯まるだろ? そうしたら、もっと広いところに引っ越して、ベッドも大きいのを買おうな」 耳元で囁く洋明に、更に赤くなる克哉。 「何言ってるんだよぉ……」 二人で働いてたら。 洋明に頼るばかりじゃないんだ、と思わせてくれる言葉。洋明も、克哉の事をアテにしてくれているんだと。洋明は言外で言ってくれている。 洋明は、いつもいつも克哉の欲しいものを、欲しいと言う前にみんな与えてくれる。 物理的なものなら案外簡単かもしれないが、そうでないものも。洋明は敏感に感じ取って、意識してか無意識かはわからないが、必ず克哉の思う通りにしてくれる。 ――ふたりで。暮らしてるんだ。 今更ながら実感する克哉。 もう、独りになんて、絶対になれない。 絶対に、この人とでなければ、生きていけない――。 しばらくの間静かだったから、てっきり眠ったかと思っていた克哉が、洋明の腕の中で微かに震えた。 「克哉?」 「――死ぬなよな」 いきなりの言葉に、ぎょっとする。 突然、何を言い出すのか。 「仕事の心配してるのか? 警察官と言ったって俺は派出所勤務だし、そんなに危険な事もないのは知ってるだろ?」 「でも、変質者が武器を持ってる事だってあるし、通り魔がいたら追いかけるだろ?」 それは確かにそうだが。 「仕事中じゃなくたって、酔っ払いの車が突っ込んでくるかもしれないし、天災だってある」 段々、言う事がエスカレートしてくる。 第一、それなら克哉だって立場は一緒だと思うのだが。 「洋明が死んだら、俺も死ぬから」 洋明を失った自分なんて、絶対に想像もしたくない。 この人がいなければ、何もしなくても、自分は死んでしまう。 「好き。洋明が好きなんだ」 背中を向けたまま、抱きしめた洋明の腕をぎゅう、と掴み、その腕に頬を寄せる克哉。 その部分が、温かいもので濡らされていくのがわかった。 「泣くな」 克哉の身体を自分の方に向かせると、洋明はきつく抱きしめた。 くだらない心配するな。 そう言ってやりたかったが、克哉の不安は、まったく的外れな事とは言えない。この仕事を続けている以上、そういった危険は確かに他よりも多く付きまとっているのだ。傷を作った事だって、ない訳じゃない。 本当は、警察官という仕事だっていつ辞めてしまってもかまわなかった。 それで克哉の不安がなくなるなら。 それでも続けているのは、困っている人を救いたいという思いからこの仕事に就いた、自分の誇りを失いたくなかったのもあるし、この仕事をしていたから克哉に出会えたという思い入れもあるからだ。 「死なないよ」 それだけを、はっきりと言う。 絶対なんて言葉は本当は存在しないのだと、克哉よりも長く生きている洋明は良く知っていた。 けれど、そんな事は今は関係ない。 絶対に克哉の前から消えたりしない。 洋明は、心の底からそう思っていた。 克哉が一度洋明の前から姿を消した時の自分の絶望感を、今でも鮮明に思い出す事ができるから。 克哉にそんな思いはさせない。 「おまえもな」 抱きしめたまま、克哉の栗色の髪を撫でる。 そんな洋明にしっかりとしがみついたまま、克哉はやっと安心したように瞳を閉じた。 やわらかな光の中で輝く、克哉の笑顔を洋明は思う。 金色の陽の光をきらきらと反射する克哉のやわらかい髪と瞳。 克哉には、やはり陽の光が良く似合う。 笑顔なんて、まぶしすぎて直視できないくらいだ。 そんな克哉に代えられるものなんて、何もなかった。 瞳を閉じて優しい寝息をたてはじめた克哉の瞼に、そっと口接ける。 額にも、頬にも。 唇には、そっと触れた後に、イタズラっぽくぺろ、と舌を這わせてみた。 くすぐったそうに、克哉は微かに口を開く。 その仕草に微笑む洋明。 再び唇を重ねる。 それはまるで――敬虔な祈りのように。 神や世界にではなく。 腕の中の克哉自身に、洋明は祈りを捧げる。 ――どうか君が、いつまでも僕の傍で幸せであるように―― END
|