2月14日。
寒空の中、ひとり待ちぼうけを食わされていた大輔は、ぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってきた人影にパッと明るい表情になって手を振った。
「ヒカリちゃん!!」
「ごめんね、大輔君。待った!?」
「ぜんっぜん!!」
突然のヒカリの呼び出しに、普段以上に待ちぼうけているような気持ちになっていた大輔だが、それはおくびにも出さずにあははははと豪快に笑ってみせた。
何せ今日はバレンタインデーだ。
男子であれば誰もが心待ちにするこの日(と大輔は思っている)に、女の子からの呼び出し。とすれば、用件はひとつだ(と大輔は思っている)。
「ところでどうしたの? 何の用事かなあ?」
わざとらしく知らない振りで訊いてみる。
期待たっぷりの瞳はまったく隠し切れていないが。
「うん、あのね、これ」
ヒカリがおずおずと差し出してみせたのは、綺麗に包装された小さな箱のようなものだった。瞬間、大輔の瞳が輝きを増す。
「こ、これって、何かな??」
見るからにお手製のそれに、大輔が恐る恐ると手を伸ばす。
「今日って、バレンタインでしょ?」
ヒカリの笑顔に、大輔がうんうんと頷く。
「だから、チョコレート」
――そうでしょうとも!!
「……一乗寺君に、渡してくれるかな?」
…………。
なにぃぃィィ!?
「ヒ、ヒカリちゃんん〜〜!??」
ドドーンと額に青筋を落としながらクワッと迫る大輔の悲愴な表情に、ヒカリはくすくすと笑った。
思った通りの反応だと、思っても口には出さないヒカリは悪女かもしれない。
「それで、これは大輔君に」
と、ひょいともうひとつの包みを出す。
「ヒカリちゃん!!」
大輔の顔は、わかりやすい。
嬉しさ大爆発でそれを受け取るが、よくよく見てみればそれは賢にと渡されたものと同じ物だ。
ほんの少し、がっかりしてしまう。
つまりはもちろん、本命チョコなどというものではない訳で。
これとは別に、本命のチョコなんてものが、存在するのだろうか……。
だとすると、それってもしかして……。
「あのヒカリちゃん、他の奴等には……?」
大輔の心中を察しているのかいないのか、ヒカリは何事もないように微笑む。
「タケル君と伊織君は、さっき一緒にいるの見掛けたから渡してきちゃった。あとはお父さんとお兄ちゃんかな」
そうか……。
タケルと伊織が一緒にいた時ということは、少なくともタケルだけ特別扱いという訳ではないらしい。
思わず心の中で胸をなで下ろす大輔。
「他に、誰かにあげないの?」
何気なーく、それとなーく訊ねてみる大輔。
「ふふ、それでも手作りなのよ。そんなに沢山あげられないな」
「そ、そう」
今年は、本命はいないのだろうか。
自分がそれでなかったことには少しがっかりだが、とりあえずは安心というところか。
「用事はそれだけなの。ごめんね、呼び出したりして。じゃ」
トンと踵を返すヒカリを思わず呼び止める大輔。
「ヒカリちゃん、あの、ありがとう」
「どういたしまして!」
そのまま走り去ってしまうヒカリ。
「……」
それにしても。
「一乗寺君に、かあ」
そんなことを言付けられてしまう自分が何だか哀しい。
賢だけは田町に住んでいるから仕方ないのかもしれないが……。
しかしその後京にも呼び止められ、同じようにチョコレートを言付けられた大輔は、ひとり哀しく田町へと向かう事になってしまったのだった。
ひとり部屋に佇むヒカリの手には、小さな箱が握られていた。
他とは明らかに違う包装をされたその箱。
「……」
冬の日は短い。
ぺたりと座り込んだヒカリが見上げる窓の外は、オレンジ色の空気に包まれはじめていた。
いつかの夏の日にも似たその色は、微かに漏れた彼女のため息も溶け込んでしまうほどにやんわりと甘い。
そこに、バタンという玄関の扉の音が響く。
「ただいまー」
ドタドタとこちらに向かってくる足音の後、いつも通りの勢いで部屋の扉が開く。
「あ、おかえりお兄ちゃん」
手に持っていた箱をひょいと隠し、帰宅した兄を迎えるヒカリ。
「何やってんだ、お前」
「何でもないよ」
太一は、手に持っていたスーパーの袋のようなものをどさりとベッドに放ると、自分もその場に寝転んだ。
「あー、参った……」
独り言のように呟く太一の横の袋からは、チョコレートと思しき包みがいくつか顔を出している。
「うわ、お兄ちゃん沢山もらったね」
モテるんだァ、とからかう妹の悪戯っぽい笑顔に、太一はバーカ、と笑った。
事実、その歳を追うごとに太一の人気は上昇している。学校の成績の方はともかく、その躍動感溢れる彼の魅力に、周りの女子が気付かぬ筈はないのだ。
今日もきっと、行く先々で女子から贈り物を渡されて、ぐったり疲れて帰宅したのだろう。
空さんからはもらえた? と、ヒカリは訊ねかけたがやめた。もらっているに決まっている。しかしそれはきっと、特別なチョコレートではなくて……。
空が赤面と共に特別な贈り物を差し出す相手は、太一ではないのだ。
ある意味、太一と空の関係は特別なものだと思う。それは男女の枠を外れた深いところに存在しているもので、恋愛とかといったものとは程遠いところにある絆なのだろう。
きっとそれは、お互いに特別な誰かを見つけた後も変わらない。
まるで、今ここに佇む兄と妹のように……。
「そういやさ、キッチンに置いてあったあれ、何だよ」
ヒカリがダイニングのテーブルに置いたチョコレートのことを言っているのだろう。
「あれは、私がお父さんにあげるチョコ」
「へ〜」
「……お兄ちゃんには、こっち」
ヒカリは、小さな箱を寝転んだ太一の胸の上に置いた。
――先刻から隠し持っていた、小さな包みだ。
「お、俺にもくれるのか。サンキュー」
太一はそれを手に取り、ひょいと起き上がった。
――手作りなんてちょっとだけ迷ったけど、さりげなく渡せたみたい。
嬉しそうな兄の顔に、ヒカリは自分の中にも嬉しさがこみ上げてくるのを感じた。
「ちゃんと手作りなんだよ」
「何時の間に作ってたんだ? みんなにこんなの配ってるなんて、ご苦労なこったなー」
「まあね……」
ヒカリは、さりげなく太一の横のチョコレート達を遠ざけると、ベッドに乗り上がり、その間に割り込むように座り込んだ。
「凄く頑張ったんだから。嬉しい?」
「嬉しい嬉しい。お前、いい嫁さんになるよ」
屈託のない太一の笑顔に、ヒカリも微笑む。
「チョコだけじゃないよ。他のお菓子も、ご飯だってそのうちもっと上手に作れるようになるんだから」
太一の肩に手を乗せ、そこに細い顎を掛けるヒカリに太一は笑いかける。
「そんなにいい女になっちまったら、よっぽどイイ男にじゃなきゃくれられなくなっちまうぞー」
「いいよ。お兄ちゃんが許してくれなきゃ、お嫁になんて行かないもん」
「やめとけやめとけ。行かず後家なんかになったら哀しいぞ」
小学生相手にどこまで本気か判らないが、まったくこの兄はずいぶんとデリカシーのない事を言ってくれる。この辺が、女の子と『いいお友達』になってしまう由縁なのではないかと思う。
そんな飾り気のない部分も、太一らしい処なのだけれど……。
「昔はね、絶対に私は、お兄ちゃんのお嫁さんになるんだって思ってた」
囁くようなヒカリの言葉に、太一はただふうん、と相槌を打った。小さな女の子にありがちな事だ、くらいに考えているのかもしれない。
だから、言わない。
あなたに手作りのチョコを渡したかったから、他の人にもカムフラージュで作ったなんていう事は。
そして本当は、今も幼い頃と同じ夢をちょっとだけ抱いているなんて。
妹じゃなければ良かったと、ほんの少しだけ思っているなんて……。
けれど、兄妹に生まれていなければ、今のこんな関係もありえなかったのだろう。それはとても皮肉な事だけれど。
胸の内に秘めるのは、兄に対する独占欲。
この兄を闘いへと引きずり込んだ運命を、あの時どれほど恨んだ事か。
何時も傍にいるあのデジモンすら、嫉妬の対象になる程に。
太一にとって白昼夢のようなあの時間に、確かに存在していた幼い自分。あの空間が幻でも、確かに自分はそこにいて、兄の運命を知った。
最後にこの手をも振り払って、闘いに身を投じた兄の決断が哀しかった。
何時からこんな闇を、抱いていたんだろう。
ともすれば、己れを引きずり込んでしまうかのように、周りにうねりを創る深い海。
他人に見えないものを、視る自分。
その感受性の豊かさ故に全てを受け容れ、けれど受け留めきれなくて弾き飛ばしてしまう自分と、疑う事を知っているが故に、最後には受け容れる事のできる兄。
その人への憧れと、思慕。
この愛情の形を、何と呼べばいいの?
――お兄ちゃん。私は、間違っているのかな。
心の中で問い掛けてみても。
答えは決まっている。
もしもこれが、兄妹の枠を超える愛情だとするならば、正しい事である筈がないのだ。
けれど誰が、人の想いを裁くのだろう。
生きているのは自分自身なのに、捨てられない想いを間違っていると、どこの誰が判断するのか。
それは、大人と社会が決めるモラルの中で。
そして自分らも、どんなに抗おうとも、確実に大人へと向かって前進しているのだ。
自分以外の大勢の人々と、上手に共存するために。
けれど。
言わないから。
お兄ちゃんを困らせるような事は一生言わないから、少しくらい間違っていても、思っているだけならいいよね?
「私は、お兄ちゃんが一番好き」
後方から太一の身体に腕を回し、笑顔で抱きしめるヒカリ。
「そっか?」
「うん。お兄ちゃんよりカッコ良くない人なんか、好きにならないよー」
太一は、そんなヒカリの頭をぽんぽんと叩いた。
「ははは。俺はそんなにイイ男かー?」
「うん。……イイ男」
瞳を閉じて、その両腕に優しく力を込めるヒカリの髪を、太一は優しく撫で付けた。
「さて、と。それじゃ本命チョコのお礼に、今日は太一君がヒカリちゃんに美味しいものを作ってあげようかな」
冗談めかした『本命チョコ』という言葉を、ヒカリはあえて否定せずに笑った。
「ホント!?」
「ヒカリは何が食べたい?」
「うん……オムレツ」
これでも太一は、この年頃の男の子の割には結構料理をする。もちろん男のする家事の域を出ないのだが、ヒカリは兄のそんな部分も好きだった。
「お前、卵好きなのな」
くすくすと笑って部屋を出て行きかけた太一だが、ふと足を止めてヒカリを振り返った。
「安心しろよ。お前が行かず後家になっても、嫁に行けるようになるまで、俺がオムレツくらいは作ってやるから」
ニッと皮肉げな笑みを見せる太一に、ヒカリはあっかんべーと舌を出す。
「お兄ちゃんのオムレツより、私の方が美味しいもの作れるようになるもん」
笑いながら今度こそ部屋を出ていった太一を見送ったヒカリは、ふと表情を緩ませ、目を細めた。
「一生オムレツ作る事になっても、知らないから……」
フンフンと鼻歌まじりにひとつめの卵をボウルに割り入れた太一は、ほんの一瞬動きを止め、それを見つめた。
割れてしまった卵。
自分と、そして妹をあの運命の奔流の中へと巻き込んだ、あの瞬間。
あの時割れた卵が、自分達の人生そのものを変えたようにも思える。
そして太一は、闘いの中で自分に守るものがある事を知ったのだ。
「傍にいてやるよ……もしも、一生お前が旅立つ事を拒んでも」
自嘲気味な微笑みと共に、太一はそっと呟いた。
きっと一生、口に出しては伝えないけれど。
「……っと、牛乳あったよな♪」
鼻歌を再開した太一は、更にふたつの卵を景気良く割ると、元気良くかき混ぜはじめた。
恋にも似た想いを口に出さないまま、それでもこの兄妹はこれまでと変わらず手を取り合いながら、これからも生きて行くのだ。
あえかな輝きと共に積み重なる、優しい時間の中で。
FIN
☆書いてはみたものの、さてどうしようかと悩んでしまった一品。なんか、変な二人だ(苦笑)。でもこの二人なら、こういう関係もありじゃないかと。私的に、太一さんてとても将来有望だと思うんですが、どうでしょう??
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