アリスブルーの伝説 第一話 夕闇に染まる海で
相変わらずの穏やかな天気が続く聖地。 空は晴れ渡り、頬を撫でる風は優しく心地良い。いつもと変わらない、爽快かつ安穏とした空気だ。 庭園のテラスで、のったりまったりとくつろぐ夢の守護聖オリヴィエは、水色の空を仰ぎ見ながら深いため息をついた。 「どうして空も大地も、目に見える色はこんなに美しいんだろうね」 なにげに詩的な事を呟くオリヴィエ。しかし、とろんと眠そうな表情のせいか、その言葉はどこか滑稽な自問のようにも聞こえる。 一体、誰のために創られた色彩なのかと、オリヴィエは考えた。それとも、誰のためでもないのに、こんなに美しい色が存在するのか。ならば、何故それを美しいと感じるのだろう。 色を判別する事の出来ない動物もいる。だとしたら、何万色という色を判別できる人間ですら、本当は判別しきれていない色もあるのかもしれない。それを判別できる生物というものから話を聞いた事が無いから、確かな事はわからないが。 そんな色があるとして、それは一体どんな色彩なのだろう――。 今まで思いつきもしなかった事をぼんやりと考えるオリヴィエの頭上を、小鳥がにぎやかに囀りながら、せわしなく飛びまわる。 「聖地は平和だよねえ……」 その様子に、隣に立つルヴァが苦笑した。 「現女王が就任してから、ずいぶん宇宙も安定しましたしねえ。しかし、そう呑気な事も言っていられないでしょうに」 「あァ……」 間延びしたルヴァの言葉に、オリヴィエがほんの少し顔を曇らせる。 「で、どうよ。何か、連絡はあったの?」 「いいえぇ。まだ何も……」 やれやれと先刻とは違う息をつくオリヴィエ。それというのもここ数日、無人の海洋惑星を探査に行ったリュミエールからの、定期連絡が途絶えているのである。 「あの子に限って、うっかり忘れてるなんて事は無いはずなんだけどねえ」 他の若手ならともかく、真面目なリュミエールが任務を怠るなど、誰も想像すらしない。だからこそ、聖地でも警戒しはじめた。 そもそもリュミエールの赴いた先の惑星と聖地とでは時間の流れが違う。聖地での一日は、彼の惑星の十日に当たる。リュミエールからの連絡が途絶えたのが三日前だから、リュミエール側からは、実に一ヶ月も連絡が無い事になる。長期の探査の予定ではなかったから、時間の座標はあわせていないのである。 「そんなに大した事でなければいいんですけどねえ。うっかりミスでもいいですから……」 うっかりミスで一ヶ月も連絡が無いなどという事はありえない。だが、出来るだけ不用意な事は考えたくなかった。しかし、こちらからの呼び掛けに反応が無いのも確かな事実である。 「先ほどゼフェルが現地に飛んだようですから、すぐに連絡を入れてくるとは思うんですがねえ……」 ルヴァはオリヴィエにならって空を見上げ、それと良く似た色の髪と瞳を持つ守護聖の姿を思い描いた。 何事も無ければ良いがと、それだけを考えながら。 「探査期間は二ヶ月……こちらの時間では一週間足らずだ。こちらを発ったのが五日前、定期連絡が途絶えたのが三日前……」 ジュリアスが、独り言のように呟いた。 しかしここは、女王との謁見の間である。 「あちらの時間で十日に一度、つまり、こちらの時間で日に一度の定期連絡のはずでしたね。それまでに、何か変わった事は?」 女王補佐官であるロザリアが、彼の惑星の資料の束を静かにめくりながら、ジュリアスに問う。 「いや。四日前の報告では、何も変わったところは見受けられなかった」 「何かあったとすれば、それ以降という事ですか……」 金の髪の女王も、小さなため息をつく。 リュミエールの向かった惑星『アトニア』は、ここ数十年の間に無人になってしまった海洋惑星である。それまではそこそこの文化の発展もあったものの、人口の増減が著しく激しいという歴史を持ち、とうとう人間はひとりも確認できなくなってしまった。 聖地とは直接の関係はないが、どうしてそのような道程を辿る事になったのか、学術的調査の先駈けとしてリュミエールが赴いたのである。さほど、危険な調査ではない筈だった。 「ゼフェルからの連絡待ちですね……。大事になっていなければ良いのですけど」 しかし、万が一の事も考えて瞬発力のあるゼフェルを現地に向かわせたのである。オスカーでもいれば良かったのだが、彼は別件で、別の惑星に調査に出向いている。惑星間の距離で言えば、偶然にもリュミエールが赴いた星と近隣ではあったが、わざわざ彼の調査を中断させる訳にもいかなかった。 ――ジュリアス! 突然、ジュリアスの頭の中に、直接的な声が響いた。 「ゼフェルか……!?」 ダイレクトにジュリアスの中に流れ込んでくるサクリアは、間違いなく鋼の守護聖のものだ。普段から細かい事を気にする質の少年ではないが、しかしそれにしても妙に強引な交信の取り方だ。 『ジュリアス、ヤバい事になった』 「……!? 一体どうしたというのだ」 いつになく、ゼフェルの声が急いているように感じられる。 『速攻、女王に報告してくれ。マジでどうすりゃいいかわかんねえ』 「落ち着け。私は今、女王陛下と謁見中だ。そなたの話はダイレクトに伝わる」 『とにかく誰か、あんたかクラヴィスか……ルヴァでもいい、こっちによこしてくれ! 俺じゃ、対処の仕方がわかんねえよ!』 相当焦っているらしいゼフェルの話は、いまいち要領を得ない。普段から要点だけをきっちり話すタイプの筈だったが、よほど不測の事態が起こったのか。 「何かあったのか」 惑星自体が何かおかしいのか、それともリュミエールに何かがあったのか。どちらにせよ、普段は斜に構えているゼフェルが顔色を変えるほどの異変が起こっているらしい。 『何が何だか……リュミエールが……!』 激しく戸惑った様子のゼフェルの口から語られた事実は、女王と補佐官、そしてジュリアスに大きな衝撃をもたらすのに十分たるものだった。 相変わらずのんびりと宮殿の廊下を歩くクラヴィスに、もの凄い勢いで走り寄る影があった。 「ちょっと!」 オリヴィエである。 勢い良く袖を掴む彼に、クラヴィスはいかにも面倒くさそうに振り返ってみせる。 「さっき、ジュリアスが次元回廊を使ったっていうじゃないの。私らには一切報告来てないよ。一体どこに行ったのさ!?」 「……それだけ息巻いているのだから、すでに知っているのだろう……」 やっぱり、と言わんばかりに、オリヴィエは顔をしかめた。リュミエールの身に、何かが起こったのだ。 「ゼフェルから、連絡があったんでしょ……つまり、守護聖首座殿がわざわざ出向かなきゃならないような事態になってたって訳?」 「それを確認しに、ジュリアスは現地へ向かったのだろう……余計な他言は控える事だ」 イタズラに聖地を騒がせないように、ジュリアスは内密のうちに出立したのだ。正確には、クラヴィスとルヴァだけは事情を知っている。 「リュミエールからの連絡が断たれたのは皆知ってるんだから、時間の問題だと思うけどねえ……」 ほどなくジュリアスからも報告が入るだろう、とクラヴィスは微笑する。こんな事態になっても何を考えているのかさっぱりわからないあたりは、ある意味流石と言うべきか。リュミエールの事を心配していない筈はないのだが。 「わーかったよ。……大人しく、報告を待ってればいいんでしょ」 はあああ、と深くため息をつくオリヴィエを尻目に、クラヴィスはまったく何事も無かったかのように、再び歩き出した。 潮の香いに鼻先をくすぐられ、ジュリアスはふと振り返った。 視線の先には、どこまでも続くターコイズブルーの海。その広大な海原は、荒ぶる事も無く、穏やかな白波を繰り返し繰り返し岸に寄せては返していた。 もうすぐ日が暮れようとしている。 ジュリアスがこの星――『アトニア』に降り立った時には、すでに日は傾きかけていた。そうなれば、日が沈むまではあっという間だ。数百メートル歩を進める頃には、あたりを染めた金色の光は、まるで瓶の底にいるような、深いオレンジ色に変化しはじめていた。 高台から、眼下の浜辺に打ち寄せられる波を見る。 この惑星は、全体の90パーセントが青の海で占められている。大陸はなく、島が点在するのみだ。 リュミエールが育った故郷の星もこんな感じだったろうかと、ジュリアスは考えた。実際には話にしか聞いた事が無いから、どんな星だったかは知らない。しかしサクリアの関係上、リュミエールはこういった海洋惑星に多く足を運んでいたから、幾ばくかの懐かしさもあっただろうとは思う。 ゼフェルやマルセルなども、己のサクリアに関係の深い環境の惑星の出身である。しかし彼らはまだ若いせいもあって、単身調査に赴く事はそうそう無い。聖地外への探査の多い中堅組の中では、リュミエールは特に故郷に似た惑星での仕事が多かった筈だ。 ジュリアスには、その辺の事はいまいちわからない。守護聖に就任したのが早すぎたためか、守護聖になる前の己の過去など、遥かに遠い昔の事だ。思い出す事もままならない。もっとも、思い出さないように努力していた事も事実ではあるが。――ジュリアスだって、一応人並みの感情は持ちあわせていたから。それが許される立場ではないと、己を戒めていただけの話だ。 ぼんやりと見つめていた海原から、ジュリアスはふいと視線を外した。 「考え事をしている場合ではなかったな……」 リュミエールの故郷に似ているかもしれない惑星で、何故自分が感傷に浸らなければならないのか。 しかし、リュミエールでなくとも、もともと海には人を感傷的にさせる作用が働いているのかもしれないと思う。全ての生命は海から誕生するというし。 人は誰でも、生まれる前は母の胎内の海を泳いでいたのだ。 「ゼフェルが気をもんでいるであろう」 己の考えを断ち切るかのように、ジュリアスは己のいる場所の、更に高台に目を向けた。 リュミエールとゼフェルがいるであろう場所。 「しかし、何故……」 ゼフェルからの報告は、完全にジュリアスの想像の範囲を超えるものだった。 何故こんな事になったのか。 考えても考えてもわからない。当然だ。だから、ここまで出向いてきたのだ。気をしっかり持たなければ。 しかし、足取りは重い。 己の歩がなかなか進まないのは、リュミエールと顔を合わせるのが怖いからなのではないかという考えがジュリアスの脳裏をかすめたが、それを打ち消すように首を振ると、彼はにわかに足を速めた。 そこに近付く毎に、鋼と、そして水のサクリアが強く感じられる。 小高い丘の上にひっそりと建つ、コテージのような小さな家にリュミエールとゼフェルがいる筈だった。 「おっせーんだよ!」 ジュリアスの気配を感じていたのか、ゼフェルが待ちかねたように小さな家の正面の扉から飛び出してきた。 「何のろのろと歩いてきてやがんだ!」 目上の者に対する口のきき方ではなかったが、ジュリアスは顔をしかめただけで叱咤する事が出来なかった。事実だからだ。自分でも、らしくないと思ってはいたのだが。 「リュミエールはどこにいる」 にわかに険しい表情になるジュリアスに、ゼフェルは親指で己の後方を指差した。 「そっちに裏口がある。出てすぐのところに、いる筈だ」 すぐに向かおうとするジュリアスの後方で、ゼフェルがそっとため息をついた。それを気配で感じ取ったジュリアスの心が、今までにもまして重くなった。 決して、質の悪い冗談なんかではない事を、ゼフェルの様子が物語っていた。もっとも、ジュリアスを担ごうとするほど無謀な人間がいる訳はないのだが。 裏口の小さな扉を、そっと開ける。 小さく開かれた扉から、家の中では遮られていたオレンジ色の光がこぼれるように入り込み、そして一歩外に出たジュリアスの身体全体を包み込んだ。 視線の先は切り立った崖になっているらしく、地面が切り取られたように見える先には、ジュリアスが見たのとは反対側の海が広がっていた。遠くに揺れる波が夕日をキラキラと反射し、白と橙のコントラストを生み出している。 そこに、リュミエールの後ろ姿があった。 切り立った崖の縁に、静かに腰をかけている。普通なら危なっかしくて見ていられないような光景だが、その後ろ姿は不思議と風景に溶け込み、安定しているように見えた。 「リュミエール……」 あまりにも小さな、ジュリアスの呼びかけ。 しかしその声をしかと聴き取ったらしく、リュミエールはそっと、空気が揺らめくのも怖れるかのようにゆっくりと振り返った。 ふわりと辺りを撫でる風にリュミエールの長い髪がなびき、オレンジに輝く絹糸のように揺れる。 目の前に立つ、夕日を反射し蜂蜜色に煌くジュリアスの髪に、リュミエールは一瞬目を奪われたかのように高揚し、微かに瞳を見開いた。 まるで、別人だった。 いや、リュミエールには変わりはない。姿形も、感じられるサクリアも、間違いなく彼のものだ。 しかし、ジュリアスを見つめるその瞳というか、全体的に彼を包み込むイメージのようなものが、普段とはかけ離れていた。 「リュミエール……ジュリアスが来たぜ」 後方から、ばつが悪そうにゼフェルが呼びかける。 その言葉に、リュミエールはそっと立ち上がると、崖から離れて歩み寄ってきた。ジュリアスから視線を外さない彼に、ジュリアスの瞳もまた、釘付けになったままだった。 「ジュリアス様……?」 戸惑うように、そっと微笑むリュミエール。 しかしジュリアスは、言葉を返す事が出来なかった。 「光の――守護聖様……ですね?」 ジュリアスの視界が、一瞬僅かに暗くなる。陽が沈みきってしまったせいだけではなかった。 先のゼフェルの報告通り、リュミエールは、守護聖である自分の歴史……つまり記憶を、全て失ってしまっていた――。 To be continued.
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