Prayer ACT.2 モノローグ ―克哉 |
――9月上旬 ――変な警官に会った。 いきなり逃げ出す事もなかったかもしれないけれど、まさかあんなにしつこく追いかけてくるなんて。いくらなんでも、警察官の体力に、俺が勝てる訳がない。 こんな事なら、最初から大人しくしていれば良かった。 だけど、根掘り葉掘り質問されるのは、正直――困る。 言いたくない事は確かに沢山あったし。 だけど、何より俺は、大人は好きじゃない。大人なんて、どいつもこいつもろくな奴がいない。 俺の両親も……『あいつら』も。 けれど。あいつは、なんか変だ。 妙にふにゃふにゃしたイメージがあって。 ポケットの中のものを見つけられた時、てっきりくだらない説教の一つもされるかと思ったのに、あいつは何も言わなかった。 お巡りのくせに、なんだか、照れているらしい。そりゃ、俺だって少し、恥ずかしかったけど。 けど。何も、そんなトコまで触らなくてもいいと、思うんだけど。ちょっとした事故なのは、あいつの焦る姿からも解ったけど。自分でやったくせに、俺のせいみたいに言うし。 別に、今更いいけどさ……。 結局、嘘をついてしまった。 確認されると困るから住所はちゃんと教えたけど……独りで暮らしているとは……どうしても言いにくい。生活はどうしているんだ、なんて訊かれたりしたら、それこそ返事に困るし。 悪かったかな、と、ちょっとだけ思う。 変なの。俺らしくもない。 だけど、どういう訳か、あのお巡りとは、それ以来よく会う。 偶然だろうか。 単に、巡回コースに入っているだけなのかもしれないけど。 初めて会った時に、結構いやな態度を取ったはずなのに、あいつは屈託もなく話しかけてくる。職業柄、気は強いのかもしれないけど、警官特有の居丈高な態度がない。 会えば俺をからかったり、気遣ったり。 俺が何か悪い事でもすると思っているのだろうか。 いや、まるっきり否定はできないけど。 それとも、単に俺を子供扱いして、大人の立場で注意深くなっているだけなのかもしれない。 別に、そんなに子供じゃないし。 けど……だけど。まあ、こいつなら、時々話くらいするのもいいかな、なんて。ちょっとだけ思った。 ――9月中旬 びっくりした。 本当に、驚いた。 家に帰って留守電のランプが点いているのに気付いた。 そのメッセージがあのお巡りさんだとは、一瞬判らなかった。 ――『いつもの場所にいなかったけど、何かあったのかな?』 何を言おうかと考えながら話しているのが、良くわかる。やっぱり変な奴だ。こんな事を言うためにわざわざ電話を入れてくるなんて。 今まで……携帯ばかりで、自宅に電話をかけてこようなんて考える人間は、俺の周りにはいなかったのに。 なんで、こんな事までするんだよ。 そんな義理は、あんたにはひとつもないじゃないか。 ――君を守るのも、僕の仕事なんだから。 メッセージの最後の言葉が、心の中に広がり続ける。 なんでこんなに、あたたかくて……嬉しいんだ……。 どうしていつも、この場所に来てくれるんだろう。 どうして、俺のこと、そんなに気にするのかな。 訊いてみても、あいつは『仕事だから』と答える。 本当にそうなのかな? 仕事だから……夜にふらふらしている俺のこと、心配しているのか? その答えに寂しがっている自分に、ふと気付く。 どうして。 そんな当り前の答えにがっかりするほど、俺は何か他の答えを期待していたんだろうか。 そうだとして……俺にそれを望むことが、許されると思っているのか? そんな資格がないことは、自分が一番よく分かっているじゃないか。 現に、お巡りさんにはもう俺が繁華街にいるところを目撃されている。 それ以外のことは知らないようなことを言っているけれど。もしも誰かと一緒にいるのを見られていたとしたら。そしていつもどこに入っていくのかを知っていたとしたら。絶対に、あいつは俺のことを軽蔑する。 けれど……いっそのことそうなってしまった方が、楽なんだろうか。 だって、このまま騙し続けて? その後、俺はどうするつもりなんだろう。 あいつが帰っていくのを見送るのが、いつもとても寂しかった。 ずっとこのまま話していたいと、いつの頃からか思いはじめていた。 俺をからかう時の口調も、頭を小突く手も、笑った顔も。いつもとても優しくて――。 偶然なんかじゃ、ない。 携帯に連絡が入るのを待つだけなら、他の場所でも良かった。 おれは、いつも同じ場所にいたら、あいつが俺をすぐに見つけてくれるんじゃないかと期待して――仕事の誘いより何より……あいつを。ここで、いつも待ってたんだ。 大人なんて、ましてや男なんて、俺は心底大嫌いだった。 俺を俺として見る奴なんて、誰もいなかったのに。 信じられない。 このままどこかに消えてしまいたい。 初めての、けれど絶対に叶うはずのない想い。 俺は――あいつが……好き、なんだ。 今まで、何人もの男に抱かれた。 お金が欲しくて、女の子との経験もないのに、何度も何度も。 でも、いくらその行為に慣れても、相手も、行為事態も、好きになれる訳がなくて。 だけど、あいつに。 お巡りさんになら、何をされてもいいと。 本気で考えている自分に愕然とした。 そんなことを口にしたとして、失うのは、あいつの優しさ。二度と会ってもくれなくなるかもしれないのに。 だけどもう……限界だった。 それで突き放されるなら、いっそそれでもいい。 これ以上、自分の気持ちを押さえることなんて、できない。はっきり嫌われてしまえば、こんな想いから開放されるんだろうか。 だから……絶対に嫌われるとわかっていても、精一杯の勇気で、俺はあいつに身体を預けた。 なのに。 どんな事も覚悟していたのに、あいつは……俺に優しく触れてきた。 深くて優しいキスを、何度も交わした。 嬉しかった。 泣きたいほどに胸が締め付けられた。 こんな最低な奴に。 だけどお巡りさんは――まだ、俺のしていることを知らない。 怖い。 嫌われてしまえば楽になるなんて、そんなの嘘だ。 きっと……生きてなんて行けない……。 あいつの優しさが辛くて、結局俺は逃げた。 もう会えない。会いたくない。 もう――傷つきたくない。 俺は、最低な人間なんだよ……。 ――9月下旬 会いたい。 だけど、会えない。 多分、あいつは俺のしていることを知ってる。 こんな俺に、いつも声をかけて、優しくしてくれて、俺自身を抱きしめてくれる人。 その存在が、こんなにも辛い。 だけどあいつは。 俺がどんなに逃げてもかまわず追いついてきて、最初の時のように、俺を捕まえて抱きしめる。 どうしてそんな風にできるんだ。 俺のことなんて、何も知らないくせに。 いつも、俺が何をしていても、あいつは何も訊かなかったから。 俺の秘密ももう知ってしまったのだろうに、何も言わない。ただ抱きしめて『他の男になんて抱かせない』とだけ言った。 こんな優しさに簡単に甘えてしまう俺は、意地汚い人間だと思う。 だけど――大好きな人に抱きしめられて嬉しいと思うのは。涙を流すのは……いけない事? おまえが好きだから、と。 あいつの言葉が、俺の傷を癒していく。 俺を抱く腕は乱暴だったけど――何度もしてくれたキスは優しくて。色々な処に口接けられて。抱かれて嬉しいと思ったのは、初めてだった。 だけど。 考えても考えても。 俺はあいつの傍にいてはいけないと、心のどこかから聞こえてくる声を、否定できない。 傷つきたくなくて、俺はあいつから逃げてばかりいる。 だけど……本当に傷ついているのは、あいつだ。 俺なんかが傍にいても、きっとあいつに辛い思いしかさせられない。 ごめん。ごめんね。ごめん……。 約束。初めてちゃんと交わした『会おう』って約束。 俺は、守れそうにないよ。 どんなに辛くても、ちゃんと生きていたらよかった。 お金がなくても、大変でも。 綺麗なままで……あいつに……会ってたらよかった……! 家を出て、あちこちをふらふらしてみても、あいつの顔が、頭の中から消えてくれない。 もう、どれだけ泣いたかもわからない。 あいつに会うまで、こんなに泣いた事なんてなかった。 いつも泣きたいような思いに捕らわれても、ばかばかしくて、独りで涙を流したりしなかった。毎日、辛くて大変だったけど、哀しくはなかったから。 あいつに会ってからの俺は、泣いてばかりだ。 でもそれは、自分自身のせいで。 俺のせいで、あいつも傷ついた。 なのに。 逃げても逃げても、あいつは俺を追いかけてくる。 俺でいいの。本当に、俺なんかで、いいのか? 辛い思いは絶対にさせないって、その言葉に、俺はこれからずっと、甘えて生きてもいいの? まだ俺がしてあげられる事があるのなら――一緒に生きていっても……いいのかな。 何度逃げても捕まえられてしまう。 何度逃げても……追いかけてきてくれる……。 嬉しい。嬉しいよ。涙が止まらない――。 初めてあいつに捕まったあの日。 あの時から。 俺は心ごと捕まっていたのだと。 抱きしめられた腕の中で気付いた――。 |