UP20030406
旅の宿
二泊三日で行われる棋院主催の囲碁ツアー。 会場である海辺のホテルのロビーでイベントのしおりに目を通した和谷の第一声は、 「人数多くないか?」 であった。 イベントの参加人数の事を言っているのではない。確かに参加人数自体も多いのだが、和谷が言っているのは、割り当てられた宿泊部屋のメンバーの数に対してだ。 「ん〜、そだな」 それを覗き込んで一言返したヒカルは、ひとり悦に入るように笑顔である。 今回は珍しく勝手知ったる顔が多く組み合わさっていて、そして本当に珍しく緒方やアキラとも同室なのである。そうなるまでのいきさつも、ヒカルは知っている。 しかし……。 「しかもこのメンバーって……」 眉間にしわを寄せる和谷。無理もない。 今回のホテルの部屋割りは、六人部屋。プロも一般参加者も稀に見る人数の多さであるが故なのだが、たしかに一部屋に六人は多い。それだけならまだしも。 ヒカル。緒方。アキラ。和谷。芦原。都築七段。 これが、今回同室のメンバーなのである。 実に、塔矢、森下門下が半々。何かの策略があるのではないかと疑いたくなる面子だ。 もっとも、ライバル関係にあるらしい両門下ではあるが、ライバル心を燃やしているのは当の森下九段だけであるという話もある。同じ部屋だからといって戦いの炎が燃え上がるでもないが。 「今回人数が多くて、なかなか上手く部屋が取れなかったんだってさ」 ヒカルは楽しそうだ。 「なんでお前がそんな事知ってんだよ?」 「部屋割りの打ち合わせの時に、オレたまたま棋院にいたからさ」 その日、ヒカルは緒方の買い物に付き合って二人で出かけていたのだが、ちょっと棋院に用事があるという緒方に、ヒカルも同行した。そこで緒方が棋院の事務担当に声をかけられたのだ。 いわく、今度のツアーは参加人数も多く、ホテルの部屋割りがきついらしい。当初予定していたホテルが何がしかの事情で使えなくなってしまったのが原因らしいのだが、どうも一部屋に五人から六人くらいは入ることになりそうな勢いだとか。 今回参加するプロの中で、タイトルホルダーは三人。当然彼らはイベント内での対局なども特別に設定されていたりして、他よりも忙しい。だから一応この三人には配慮して団体部屋は避けたのだが、ツインの部屋しか取れなかったので簡易ベッドの用意をするがそれで構わないか、という事だった。 「そうでもなければ、お三方のうちの誰かが大部屋に行く事になってしまうのですが」 申し訳なさそうに告げる事務員に、この時緒方はきっぱりと申し出た。 「俺が大部屋に行く」 「!?」 まさか緒方から間髪入れずにそんな発言が飛び出すとは思っていなかったのか、事務員の目はまん丸に見開かれた。 「え、ですが」 「かまわん。進藤、お前もこのツアーに参加するよな」 急に振られて、ヒカルはただうなずいた。 ヒカルも緒方の言葉に驚いて、ぼんやりとその顔を眺めていたのだ。緒方が大部屋を好むとは思っていなかったから。 「だったらこいつと同じ部屋に放り込んでくれ。それでいい」 「は、はあ」 何故そこでヒカルの名が、そもそもどうして今ここに二人がそろっているのか、事務担当はそこまで思考をまわしている余裕がなかった。 あまりにも、緒方の表情に鬼気迫るものがあったから。 ――怖い。 別に、緒方が大部屋を望んでいるわけではなかった。むしろ、騒がしいよりは静かな環境を好むタイプだ。 単に。 三人のタイトルホルダーの内の一人が、あの桑原だったのである。 「あのジジイと同室になるくらいなら、大部屋の方が百万倍マシだ」 ひゃくまんばい。 ヒカルはげらげらと笑った。 「進藤」 ものすごく不愉快そうな緒方の顔。 しかし笑われようが何だろうが、相手はあの桑原なのだ。二人きりではないとはいえ、もしもあとひとりが気を利かせでもして大部屋に移ってしまったら、かなり考えたくない状況になるのは必至。桑原が大部屋に移る、という可能性はかなり低いだろう。 そんな事になったら、ツアーの間中絶対に部屋に帰らないからな、などと無茶な事も考えてしまう。 まったく、明日をも知れぬご老体のくせに、豪華クルージング体験付きなどという元気いっぱいなイベントに出てこないでほしいと緒方は思う。むしろ、その辺が楽しみなのかもしれないが。最近のジジイは何気に元気が余っていて困る。 「あははははは、は、は、イテテ……」 「腹が痛くなるほど笑うな」 腹を抱えるヒカルを、緒方はしかめっ面で睨みつける。 「はは、ゴメン……そだね、あとは塔矢とか和谷も一緒だったらいいのにね」 状況的に楽になるであろう面子の名をヒカルが何となく口にしたのを、事務員は頭の中にインプットしていた。場合が場合なので、できるだけ棋士の意向に沿うようにと配慮しているのだ。 「わかりました……ではそういう方向で」 そうして、今回の部屋割りが決まったのである。 「だけど緒方先生が大部屋に配置されるってのは意外だな」 「はは」 和谷の言葉にただ笑うヒカルは、事の真相は黙っておく事にした。 「いいじゃん、きっと楽しいぜ。塔矢の奴も一緒だしさ!」 ヒカルは嬉しそうだが。 ――楽しいのはお前だけだろ……。 和谷は思う。 あの塔矢アキラと緒方十段と同じ部屋で寝泊りして、何が楽しいものか。イベントで疲れて部屋に帰って「せっかくだから一緒に打とうぜ」などと言えるフレンドリーな関係ではないのだ。偏屈ぞろいの塔矢門下(と和谷は思っている)相手に、宿泊部屋でも疲れろというのか。 「僕がなんだって?」 唐突な声に、ヒカルは「あ」と振り返った。――和谷は飛び上がりかけていたが。 「塔矢!」 「おはよう。……キミはいつも呑気だな。遊びではないんだぞ。緒方さんも都築七段もいらっしゃるんだ。失礼のないようにしなければ駄目だよ」 それよりさっさと部屋に行って荷物を置いて来いというアキラの言葉に、ヒカルは慌ててうなずいた。すぐに開会式が始まるから、スタッフ側にはあまり時間がないのだ。 ともかく、二泊三日のツアーイベントが始まるのである。 「はーあ、ほんっとにクッタクタだよなあ」 和谷が、盤上に石を打ちながらぼやく。パチンという音にも、どこか覇気が感じられない。本当に疲れきっているのだろう。 夜まで続いた指導碁が終わって、ひと風呂浴びたヒカルと和谷が部屋に戻ってきた時には夜の十時を回っていた。そのまま碁盤を持ち出してぼんやりと石を打ちながら、今に至る。 「お疲れ様ー。あれ、アキラはまだ?」 夜になっても元気な芦原が、そこに戻ってきた。 「あ、お疲れ様です。塔矢、まだ帰ってないよ」 ぱちんと石を打ちながらヒカルが答えると、芦原はさもありなんというように苦笑した。 「やっぱり? そろそろ上がれってちょっと前に声掛けといたんだけどさァ。なんかお客さんに囲まれてたみたいだから逃げられなかったんだろうな。あいつ真面目だから」 仲間に入れて、と盤上を覗き込んだ芦原は、二人に缶ジュースを差し出した。緒方も都築もまだ戻っていないので、手持ち無沙汰らしい。 礼を述べて、それを受け取る二人。 塔矢門下とはいえ毛色のちょっと違う芦原には、和谷もなじみやすいらしい。程なく、その空間に談笑の時間が訪れたのだった。 もっとも、十二時も近くなった頃に都築と連れ立って戻ってきた疲労こんぱいのアキラが部屋に足を踏み入れた時には、そこは盛大な枕投げ会場と化していたのだったが。 頬に触れる微かな感触で、ヒカルは目を覚ました。 その良く知った感覚に、ぼんやりと瞼を開く。 灯りをおとした部屋の中。 凝らした視線の先に、誰かが屈み込んでいた。 「……おがたせんせ……?」 「起こしたか」 ヒカルは睡眠が浅い時と深い時が極端なので、緒方が共に眠りに就くような時には、実は案外気を遣う。今日は疲れていたせいだろうか、逆にあまり深い眠りではなかったらしい。ちょっと頬に触っただけで目を覚ました。 「どうしたの……」 半分寝ぼけたように、ヒカルは口を開く。確か枕投げをした後、和谷とヒカルは緒方の姿を見ることなく眠りに就いてしまったはずだ。その後の状況は知らないが、暗い室内では他の人間が起きているような気配はない。もうかなりいい時間なのだろう。 「いや……眠っている顔を見ると、触りたくなるもんだな」 緒方はそっと立ち上がって窓辺に移動した。カーテンは開いたままだが、海に面した窓の外からは、光の類は入ってこない。 緒方が誘うような素振りを見せた訳ではなかったが、ヒカルはもそもそとそこから起き出した。備え付けられた椅子に座る緒方の傍に立つ。ついさっきまで緒方はそこにいたらしく、テーブルの上には灰皿が置いてある。 「ずっと起きてたの」 「まあな」 ヒカルは静かな動作で、近くにある冷蔵庫を開いた。 「何か、飲む?」 「ビール」 短い返事に、ヒカルはハイ、と缶を渡した。 今日の緒方は例によって客と一緒に飲みに出かけていたようだが、その割にあまり飲んでいないようだった。公開対局の相手が桑原だったから、疲れていたのかもしれない。 「眠れない?」 ビール缶のプルタブを引く緒方を、ヒカルは覗き込んだ。 「ん、まあな」 なんだかまるで意味のなさそうな短い言葉の応酬。緒方の表情は、何だかとても覇気がなかった。どこかとろんとしているような。 眠りたくても眠れないのかな。そんな風に、ヒカルは思った。 「そんなに桑原先生が気に入らないのかよ?」 楽しそうに笑いつつ、椅子にもたれる緒方の背後から両腕を伸ばして抱きすくめた。 昼間の緒方と桑原の対局は、イベントという事もあって、解説に笑いを含んだ早碁だった。持ち時間無しの一手20秒以内という対戦条件で、勝ったのは緒方だったが、その後が悪かった。 「年寄りに早碁はキツイわい。緒方君も公式戦でこれだけ打てたら、本因坊のタイトルなぞあっという間にくれてやれるんじゃがなァ」 桑原がマイクを片手に発した言葉は会場をドッと沸かせたが、緒方のこめかみは上昇する血液ではちきれそうになった。その場にいた解説やスタッフの面々も、心の中で「うはあ」と頭を抱えていた事だろう。 誰一人、顔には出さなかったが。 明らかな遊びの碁に対して「これだけ打てたら」などと言う桑原の皮肉は、緒方の脳天にこれ以上ないという位に食い込んだに違いない。 だからこの日の緒方は、この上なく不機嫌だった。 ヒカルは笑う。 「でもオレ、対局見てたよ。緒方先生カッコ良かったじゃん」 背中からのヒカルの声に、緒方は「そうかよ」と苦笑する。 ヘタな慰めではない。短い時間の中で、彼らしい反射神経で好手を打ち込む緒方を、ヒカルは本当にカッコいいと思っていたのだ。桑原にしたって、してやられたのがわかっているからそんな風に言葉で追い詰めたりしたのだろうし。 どちらも大人気ないのは確かだが。 「別にあのジイさまに腹が立って眠れない訳じゃねえよ」 ファンと一緒に飲みに出かけて、しかし自分はあまり飲まなかったのだが、時間はかなり遅くなってしまった。ヒカル達はさすがにもう寝ているだろうかと思って部屋に帰ってきてみれば、ヒカルと和谷とアキラと芦原が枕にまみれて寝こけており、そこに都築が布団を掛けて回っているところだった。予想を上回る彼らの寝姿に、何があったのかは想像に難くないところだったが。 ひとしきり話をした後で、自分ももう寝ますと言う都築と就寝の挨拶を交わして、照明を落とした部屋の中でひとり、煙草をふかしていた。そうして何をするでもなくぼんやりとヒカルの寝顔なぞ眺めているうちに、こんな時間になってしまったのだ。 「なんでオレの顔なんか見てるんだよ。珍しくもないじゃん」 何度も共に夜と朝を過ごしたというのに。 「そうでもないぜ」 これまでにヒカルと共に寝起きしたのは、すべて緒方の自宅での事だ。旅先の旅館で、となると、やはり少々趣が違う。 「結構面白かったぜ」 「そんなエロオヤジみたいに」 「うるさい」 緒方はヒカルの腕を掴んだ。前方まで引き寄せてその身体に腕を巻きつけると、あっという間の仕草でヒカルを膝の上に抱き上げる。 「たまにはこういうのもいいかと思ったんだよ」 こんなイベントのツアーで、こんな風に一緒の部屋になるなんて滅多にない。多分、これからもそうそうないぜと笑って見せると、ヒカルもおかしそうにハハ、と笑った。 二人で旅行になんて出かけた事はないけれど。 確かに、こんなのもいいとヒカルは思った。 忙しいから、仕事だからとあまり気にしてはいなかったが、ほとんど顔も合わせずに一日終わらせてしまったのは、やはり少し勿体無かった。 「じゃあさ、明日は出来るだけ一緒にいよ。一緒に飯食って、一緒に風呂入って、仕事終わったら部屋で遊んで一緒に寝よう」 旅は二泊三日。単純で明快な明日の予定をヒカルが並べ立てると、緒方はまた笑った。 そうだな、と囁きながら、膝の上に抱くヒカルの身体に手を這わせる。 先生こんなところで、と呟くヒカルの口唇を、己のそれで塞いだ。 「少しだけな」 「うん……」 囁きあって、緒方がヒカルのジャージの裾から大きな掌を侵入させると、ヒカルは微かな息をついて緒方の身体にしなだれかかる。あまり昂らせないようにと、ただ素肌の上を這う緒方の掌の感触に心地よさを覚えながら、ヒカルも緒方の身体に両腕を絡めて、その淡い色の髪を梳いた。 闇の中、ただ触れ合ってぬくもりを産み出す。 そう。 こんな日もいいと、ふたりは思って抱きしめあった。 苦しそうに、それでもごくごく静かに寝返りを打ったアキラは、音にならないくらいの微かな息をついて眉間にしわを寄せた。そうしてから微かに瞳を開くと、ばっちりと隣に横たわる和谷と視線が合ってしまった。 二人、視線が絡み合う。 かなりうつろな、あきれた表情を見せ合った。 ――まったく、あの人たちは。 時と場所をわきまえてほしい、などと考えながら二人、心の中で盛大なため息を漏らす。 しかし明日はもっとあからさまな二人を見せ付けられる事になるのだ。 少々覚悟しておいた方が良い。 苦手意識を持っていたはずの塔矢アキラと、思いのほか心が通い合ってしまった今日の和谷である。 もっとも、この二人も知らないごく至近距離で、微動だにしない都築もひっそりと息を殺しながら、頭を抱えたい心境に駆られていたのだったが。 この夜、本気で安らかな寝息を立てていたのは、芦原ただひとりだけだったのである。 END |
●あとがき● 100のお題チャレンジ小説です。 まあ、長い人生、生きているうちには、こういうバカップルの被害に遭う事もままある、という事ですね〜(笑)。ありますよ、氷村も勿論(爆笑)。でも本人たちは幸せだからいいんです。どんどんやってくださいvv |