UP20031105
明日の顔
進藤ヒカルと一緒にいるようになって、大抵においては愉快だったり新鮮だったりと、いい意味で忙しい事が多いのだが。 ごくごくたまに、困る時もある。 今が多分、その時じゃないかと思う。 緒方はひそかに、ため息をついた。 緒方の目の前、ソファに浅く座したヒカルは、眉間に深く皺を刻んだまま緒方の顔を睨みつけている。 「……」 睨み付けてはいるが、一言もない。 現在この二人が何をやっているのかといえば。 些細なきっかけから始まった、喧嘩の真っ最中だ。 「……」 「何とか言ったらどうだ」 「……」 「分が悪くなれば、だんまりか?」 フン、と鼻で笑うように首をかしげてやれば、ヒカルはピクリと反応を示してその瞳をギッと緒方の瞳へと向けなおす。 その場に他人が存在したなら、そんな緒方の事を大人気ないと見るかもしれない。が、彼がヒカルを対等に扱っているからこそ、喧嘩にもなる。それは彼らの日常でもある。 「悪いのは先生。オレは謝らないからな!」 「奇遇だな。オレも同意見だ」 先生が悪い、の方ではない。謝らない、という意見の方だ。 「……ッ!!」 ガタッと音を立てそうな勢いで、ヒカルは立ち上がった。いかんせんソファだから、実際のところはそんな派手な音は立たなかったが。 「……帰る!」 「冗談じゃない」 「……!」 ソファにドッカリと身を沈めた緒方の言葉に、ヒカルは鋭い視線を向ける。 「オレは送ってやる気なんざ、さらさらないぜ」 「いらねーよ!」 「今日はオレのところに泊まるって親御さんに言ってきてるんだろうが。それをこんな時間に一人で帰したなんてな、俺の立場がなくなるんだよ」 そろそろ日付も変わろうかという時間を刻む棚の上の時計を、緒方は指し示す。 「……家に帰らなきゃいいんだろ! 行くトコなんていくらでも」 「なお悪い」 あっさりと言い捨てる緒方。 まだ少年と言えるヒカルが真夜中の街をひとりで出歩くというのも確かに少々無茶だが、送る気がないから帰るなという緒方の論もかなり無茶苦茶だ。 「第一、子供は寝る時間だぜ」 緒方は言うと、大儀そうに立ち上がって、突っ立ったままのヒカルの腕を掴んでスタスタと歩き出した。 「何すんだよ!」 掴まれた腕を振り解こうとするヒカルだが、その強い手の力はヒカルに抗う事を許さない。引きずられて指し示されたのは、寝室のドアだ。 「とっとと寝ちまえば、オレの顔を見てなくても済むぜ」 その言葉に唖然とするヒカルを、緒方は軽く突き飛ばして寝室へと追いやった。そのままパタンとドアを閉じる。 「ちょっと!」 「オレも静かな部屋で、のんびり酒が飲めるよ」 いかにもせいせいした、といわんばかりの緒方の言葉に、寝室に閉じ込められたヒカルの気配が鎮まる。扉一枚を隔てて、ヒカルは呆然と目を見開いていた。 「……バッカヤローッ!!」 怒気のこもった罵倒の声の後で、ボスンという鈍い音。本当に、寝に入ったらしい。もっとも、寝室に閉じ込められては他にやれる事もないのだが。 やれやれ。 緒方はソファへと戻り、静かにその身を沈めた。 宣言どおりに酒でも飲もうという様子は、見せない。 煙草に火を点け、それをくわえた緒方の視線は宙をさまよう。揺れながら上昇する白い煙だけを、その視界の中に留めていた。 やれやれ、だ。 ふかしているばかりの煙草を灰皿に押し付け、緒方は再びソファへと寄りかかる。 別に、本気の喧嘩じゃない。 まあ、いろいろな事が食い違ったりすれ違ったりするあたりで、決してお遊びという訳ではないが、とどのつまり、一緒にいる時間が長くなれば当然起こりうる、何でもない現象だ。 少なくとも、緒方にとってはそんなに深刻な問題ではない。 のだが。 けれど緒方は、喧嘩のたびに困ってしまう。 静かに立ち上がり、音もなく移動した緒方は寝室の扉のドアノブにそっと手をかけた。 ガチリという鈍い音を立てて開くドアの隙からその身を滑り込ませ、後ろ手でそれを閉じる。ベッドの方へと視線を向ければ、人ひとり分の膨らみを確認する事ができた。 そっと、近付く。 ギシ、と微かな音を立てて、緒方はヒカルの潜り込むベッドの隅へと腰を落とした。 背中を向けているヒカルの後ろ姿を眺める。 多分まだ眠ってはいないであろう彼の髪に、そっと触れてみた。サラサラと撫で梳き、幾度か指を通した後で、細い肩へと掌を移した。 ガバ。 唐突に、ヒカルが起き上がった。 パシンと、その手を振り払う。 「触んな」 キッと緒方を睨みつける大きな瞳。 「触んなよ。今ケンカ中なんだからな」 その瞳が、怒気をはらんだ言葉の後に、逸らされた。 空間を睨みつけるその瞳に、緒方はため息をついた。緒方を責めたてるかのような、それでもこちらを見る事のない瞳。 けれど緒方は、知っている。 その瞳が本当は、緒方を責めているのではないという事。 こんな瞳を見せる時のヒカルは。本当は誰よりも何よりも、一番に自分自身を責めている事。 だから緒方は、そんな時、困る。 喧嘩をする事自体に、そんなに困っている訳ではない。 こんな時に、彼が見せる今みたいな表情に、心底困ってしまうのだ。 別にヒカルだって、万事こんな状態であるという訳ではない。悪いと思える事を正確に捉える力はあるから、いつでもどこでも自分のせいにして落ち込んでいるという事はない。 が、こと緒方との喧嘩に関して言えば、つまりがお互いの意地の張り合いによる痴話喧嘩がほとんどだ。そんな時のヒカルは、喧嘩の始めこそ暴走してヤイヤイとやりあうが、そうしているうちにどんどん自分の悪かったところを拾い集めて、ああ言えばよかった、これは間違っていたと、実に正確に状況判断を始めてしまう。 持って生まれた大雑把さゆえに簡単に暴走してしまうくせに、反面、過ぎるくらいに繊細で臆病なのだ。 自分の至らなさで何かが手遅れになってしまう事を、常に怖れている。 けれど素直になれなくて。 相手を責めるような素振りを見せながら、心の中で必要以上に自分自身を叱責する。 素直にごめんなさいと言えればそれで済むのに、それが出来ないで意地を張り続けるから、その姿がかえって痛々しい。 だから緒方は、いつも困る。 そんなヒカルを見ている自分が、辛い。 だから結局は、許してやるしかなくて。 「悪かった」 そんな言葉が、口をついて出る。 「……なんで謝るんだよ」 「オレが悪かった」 逸らされていた強い瞳が、緒方に向き直った。 「何で謝るんだよ! 悪いと思ってないって、自分だって言ってたじゃん!」 怒鳴った後で硬く口唇を引き結ぶヒカルの顔を、緒方はただ見つめる。 「別に」 何度目かのため息。 それでも目の前のこの男が、大切で仕方がないのだからどうしようもない。 「オレは最初に、オレとお前で楽しくなれりゃいいって思ったんだから。そのために出来る事を何でもやろうってずっと思ってきたから」 クシャ、とその髪を撫でる。 「お前がそんな顔をしなくなるなら、何だってやってやるんだよ」 何だってする。 些細な喧嘩で最初に折れるくらい、なんでもない事だ。 ちょっと前の緒方だったらまったく我慢のならない事だったかも知れないが、今は。うっかり始まってしまった喧嘩で、そんな顔をされる方が何倍も辛いし苦しい。 眉間に皺を寄せたまま、泣きそうになっているようなその顔を朱に染めたヒカルは、緒方の手を振り払って再び顔を逸らした。 「見んなよ……ッ」 最低だ。 やっぱり自分は最低だと、そんな時のヒカルはいつもそんな風に感じてしまう。 多分、自分はそうなる事がわかっていて、それを期待しているから。 緒方に甘やかされるのを、待っているから。 緒方の手が、ヒカルの肩に伸びた。 抱き寄せて、ヒカルの顔を自分の肩口へと押し付ける。 言われたとおりに、その顔は見ない。ヒカルは抵抗しなかった。 「オレの事、嫌いになったか?」 緒方の言葉に、ヒカルの肩が微かに動いて反応した。 「……そんな事、思ってもいないくせに」 「そうでもないぜ。結構いつでも不安なもんさ」 ヒカルに関してだけは。手放せないと感じた、たったひとりの人間だから。 案外これで、いつも不安だ。 「嫌いに、なったか?」 ヒカルが額を寄せた肩から、直接響くような緒方の声。自分の深いところまで浸透してくるようなその声が、ヒカルは好きだった。 「……嫌いになんて、なるわけないじゃん」 見下ろしてくる、意地の悪そうな瞳も。 ヒカルに触れる大きな手も。 碁を打つ時の、その姿も。 いつも不安なのは、自分の方だ。 与えられてばかりいる事に不安になるほどに、この人の事が、好きだ。 「好きだよ」 言いながらヒカルは、クスクスと笑った。 「今ないたカラスが――だな」 緒方も笑う。 「そんなのもう忘れた。喧嘩してた事も、その理由も」 どうだっていいや。そう、ヒカルは呟く。 「喧嘩するほど――って言うじゃん」 「――コイツ」 二人で、笑う。 緒方の肩に両手をかけたヒカルが、その左頬にチョコンと口接けた。 緒方もお返しのように、ヒカルの頬に口接ける。 「いつもそうやって、笑ってろよ」 何でもしようと、緒方は思っていた。 ヒカルの泣き顔を見ないで済むように、ヒカルにそんな顔をさせないように。これからもいつでもずっと彼が笑っていられるように、出来る事は何でもしたい。 けれどそれは多分。 例えば彼のために死ぬ事よりも、案外に難しい。 多分これから何度も、彼が泣く事も、自分のせいで泣かせる事もあるだろう。 不可抗力もある。どうしようもない時もあるだろう。 だからせめて、彼が今見せているこんな笑顔を。 明日も見る事ができたらと、そう思う。 ヒカルの明日の顔を案じて不安になるよりも、ヒカルの明日の顔を笑みの形で迎えられるように、この腕で包み込む事を考えていた方がいい。 そしてそんなヒカルの笑顔と抱擁を、自分の方こそが必要としている事を、そのうち伝えられればいいと思う。 機嫌の直ったヒカルの背を抱きしめながら、その髪に幾度も幾度も口唇を這わせて。 「先生、くすぐったいって」 笑顔で囁くその口唇を、自分のそれで塞ぐ。 試しに、言ってみようか。 緒方はひそかに考えた。 明日、今みたいな笑顔のヒカルに、朝の挨拶を済ませたら。 END |
●あとがき● 以前に、喧嘩をする二人――みたいなリクエストもありましたので(笑)。ちょっと書いてみました。 で、いつも思うのですがね。多分、あなたのために死ぬ事よりも、あなたのために一ヶ月間トイレを我慢する方が、断然不可能なんじゃないかと(笑)。実はそんなノリのお話なんです、はい(撲殺)。 |